私がお遍路をしようと思ったわけ。
いまから1ヶ月半ほど前。
目の前には1枚の書類があった。
会社が倒産し、この書類を手にすることになった。
たかが紙切れ。されどその紙切れ一枚が圧倒的な効力を持っている。
一瞬にして社会のレールから弾き飛ばされた。
全く予想していなかった展開。
しかし、これが現実。
これからどうするのか。なにをするのか。
転職をするのか。お寺に帰るのか。
選択肢はいくつもあった。
悩みに悩んだ。
何日も家から出ず、篭っている日もあった。
そんな中、数多くある選択肢の中から、私は「お遍路」という選択肢をとった。
やはり自分がお寺の息子であるからだろうか。
人生で一度は自らの足でしっかりと周りたいとは思っていた。
ある意味、社会のしがらみから解放され、自由の身となった「いま」こそ、そのときだ!と思った。
そして、心のどこか奥底で、「達成感」を味わいたい、なにかを「成し遂げたい」という想いがふつふつと湧いていたのかもしれない。
僧侶としてまだまだ未熟な自分自身に、もっと「付加価値」を付けたいという「欲」なのかもしれない。
自坊(実家のお寺のこと)は禅宗だ。
そう考えれば、再び禅道場へ掛頭するのが良いのかもしれない。
禅はシンプルかもしれない。
しかし、定性的だ。
一方で、真言宗が87ヵ寺を(1ヵ寺だけ曹洞宗である)占める88箇所巡礼。
88というお寺を巡ることは定量的だ。
今の自分にとって、この定量的なお遍路というものがシンプルかつしっくりきているのかもしれない。
だから、「お遍路」を選んだ。
「お遍路」をすると決めてから、数多くの友人の助けをいただいた。
人間は1人では生きていけない。
精神的に支えられている。
仲間がいるから、自分がいる。
支えてくれる人がいるから、立ち直れる。
応援してくれる人がいるから、頑張れる。
いろんな方々の力をお借りし、まもなく、四国八十八箇所の巡礼へと向かう。
1200kmという道のりを歩み進める。
出典:www.free-art.jp